「千字文」と「中華字経」

古来、漢字圏の国々では、「千字文」というものが漢字の教科書がわりに使われてきた。6世紀の初めに中国の南朝の梁の武帝が識者に命じて作らせたとされる文章で、日本の「いろは歌」と同様と言うべきかそのスケールを20倍にしたと言うべきか、千の漢字を重複なく配置することで作られた韻文である。


上の写真のようなテキストを使って、江戸時代の寺子屋なんかでは以下のようなやり方でその「読み方」が教えられていた。「文選読み(もんぜんよみ)」と呼ばれる読み方である。

天地玄黃 宇宙洪荒
日月盈昃 辰宿列張
寒來暑往 秋收冬藏…


テンチのあめつちは
   ゲンコウとくろく・きなり
ウチュウのおおぞらは
   コウコウとおおいに・おおきなり 
ジツゲツのひ・つきは
   エイショクとみち・かく
シンシュクのほしのやどりは
   レッチョウとつらなり・はる
カンライとさむきこときたれば
   ショオウとあつきこと・いぬ
シュウシュウとあきはとりおさめ
   トウゾウとふゆはおさむ…

最初に音読みしてその漢字の「音」を覚え、次に訓読みしてその「意味」を覚える。朝鮮語でも、同じような教え方をしていたらしい。

하늘천 따지 검을현 누루황 天地玄黃
はぬるチョン、たジ、こむるヒョン、のるホァン、チョンジヒョンファン
(そら天、じべた地、くろ玄、きいろ黄、天地玄黄)

ひらがなで書いたのが朝鮮語の「訓読み」にあたる部分で、漢字で書いた部分が「音読み」にあたる部分である。これをもし丸暗記することができれば、それだけでかなり朝鮮語に詳しくなることができそうだ。
Daum 블로그

ベトナムの事情は、あまりよく知らない。けれども調べてみたら、下記のように「千字文」を専門に扱ったウェブサイトが存在する。今でも勉強する人が、いるということである。
2 - Thiên Tự Văn 千字文* - Cổ Hán Văn 古漢文

日本にも「千字文」関連のウェブサイトは、けっこうある。特に書道をやっている人には、今でも最も大切なテキストのひとつだからである。私が調べた中では、下記のサイトの説明が一番ていねいだった。
千字文の読み方と意味#1|ブログ|西麻布書院

また、私と同じような問題意識を持って、中朝越日のそれぞれの読み方を併記した「千字文」の表を公開してくれている人もいた。最初に私が考えたのは、伝統にのっとり、これをテキストにしてひとつひとつの文字の読み方を覚えてゆこうということだった。
千字文

だが、いかんせん内容が古すぎる。

驢騾犢特 駭躍超驤
(ロラトクトク・ガイヤクチョウジョウ=小さな馬、仔牛、若い牡牛などの家畜が、遊び戯れて跳ねまわり跳び上がっている)
…みたいな言葉や漢字を覚えても使う機会があるとは思えないし、

女慕貞絜 男效才良
みたいな一節は文字を見ただけで勉強する気をなくしてしまう。聞くところによると中国の幼稚園では今でも「千字文」を子どもに暗記させているらしいのだけど、それって、どうなのだろうか。

だからこのブログでは、中国の鄭州大学の郭保華という人によって2000年に作成され、現在中国で急速に普及している「中華字経」というテキストを使いながら、漢字の読み方の研究を深めて行くことにしたい。「中華字経」についてもいろいろ書いた方がいいのかもしれないが、実は私もよく知らない。ただ読んで見た限り、内容は「千字文」よりはるかにマシである。

…というわけで、ここまでがこのブログの「前置き」にあたる部分だった。長かった。実際に漢字の読み方に入る前に挫折してしまいそうになった。次回からはいよいよ、「読み方」に取りかかってゆきたいと思う。